熊本城ギャラリー
熊本城フォトコンテスト2015「春」

熊本城の見どころ

*詳しくは「熊本城公式ホームページ 城内ガイド」をごらんください。

天守閣・宇土櫓ゾーン


◆熊本城



数々の歴史ドラマの舞台となった、日本三名城のひとつ「熊本城」
日本三名城のひとつ熊本城は、名将加藤清正(かとうきよまさ)が幾多の実戦の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7年の歳月と、心血を注いで築城したものです。
大小天守閣をはじめ、櫓(やぐら)49、櫓門18、城門29を数え、城郭の広さは約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5.3kmにも及ぶ豪壮雄大な構えで、清正流石垣と呼ばれる優美な石垣と、自然の地形を巧みに利用した高度な築城技術で知られています。

優美な石垣と自然の地形を活かした名城として現代に受け継がれる。
熊本城は加藤家2代、細川家11代の居城として続いた後、明治になり廃城となりました。 西南戦争では薩摩の大軍を迎えて、50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮しましたが、総攻撃の3日前、原因不明の火事により天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)など主要な建物を焼失してしまいました。
焼失を免れた宇土櫓(うとやぐら)など13棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。
なお、現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、1市民の5,000万円もの浄財を基に、約1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリート造で外観復元されたものです。
現在国内外から多くの観光客の方が訪れ、2013年からはトリップアドバイザー「行ってよかった日本の城」一位にも連続して選ばれています。

◆ 天守閣




巧みに積み上げられた石垣の上にどっしりと構える天守閣。最上階からは、遠く阿蘇の山並みを一望。
天守閣は茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなります。
大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりした印象を与えます。四面に優雅に反った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えています。内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、明治初年に天守に登ったジェーンズは「巨大な中世の武器庫である」と書き残しています。

小天守は大天守成立後に増築されたもので、景観を考慮し西にずらして建てられています。外観2層内部4階地下1階で、内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城(ろうじょう)も可能な構造になっています。
天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示しています。また最上階は展望所となっており、熊本市内はもとより遠く阿蘇(あそ)の山並みを見ることもできます。


天守閣に展示されている鎧


西南戦争時の砲弾(天守閣展示物)


◆本丸御殿大広間


市役所14階よりの展望

平成20年に復元されて一般般公開
往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元しました。
建築面積:約2,161平方メートル
建築費:約41億8千万円で復元(発掘調査、設計等を含めた総事業費:約54億円)
見所は、障壁画の復元を行った「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」や全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」、巨大な小屋組みを見ることが出来る「大御台所」などです。


◆頬当御門(ほほあてごもん)


門衛の待つお城の正面玄関

天守閣へ向かう正面入口です。この門はお城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑(かっちゅう)の部品の頬当てに見えることから、頬当御門と呼ばれるようになったと言われています。
頬当御門には鎧(よろい)を着た門衛が控えています。(門衛は、天候等により配置しないこともあります。)


◆宇土櫓(うとやぐら)




小西行長に縁の「三の天守」。重要文化財ですが内部を一般公開しています。

本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇ります。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在しました。

宇土櫓の名前の由来は宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残します京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われています。指定の重要文化財ですが、現在は内部を一般公開しています。


  宇土櫓前広場から
 

◆ 狭間・石落とし(さま・いしおとし)



防備の固さを物語る熊本城の狭間と石落とし
敵から身を隠しながら鉄砲や矢を放つ小さな窓のことを狭間といい、櫓(やぐら)や塀の壁に設けられています。熊本城の狭間は長方形で長短2種類あり、長いものが矢狭間(やざま)、短いものが鉄砲狭間です。
櫓の角や塀の途中に設けられた壁面の出っ張りが石落しです。石垣を登ってくる敵に石を落とす仕掛けです。熊本城では櫓や塀、天守はもちろん、遊興の場である数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)でさえ、南面の壁に狭間や石落しが設けられており、防備の堅さを物語っています。


本丸御殿ゾーン


◆本丸御殿



大名文化の粋を集めた創建時の世界。
加藤清正公によって創建され、行政の場、生活空間として利用された「熊本城本丸御殿」は、明治10年の西南戦争で焼失。
平成15年の秋から始まった「本丸御殿大広間」の建築工事は、江戸時代から残る絵図や文献、古写真、発掘調査を基に進められてきました。大広間(対面所)、数寄屋(茶室)、大台所等、復元工事も着々と進み、平成20年春の落成を迎え、本丸御殿創建時の様相を取り戻しました。

昭君之間(しょうくんのま)



対面所(藩主の会見の場)

本丸御殿の中で最も格式の高い部屋で、慶長期の特色である鉤上段(かぎじょうだん)を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。

大広間



その広さは圧巻!
今回復元された中で最大の部屋である「鶴之間」(60畳)から奥に向かって「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続きます。それぞれの部屋境は襖で仕切られ、左手には縁側が配置されています。

縁側



大広間の各部屋を繋ぐ縁側
大広間の南側に配置された縁側は「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の3段で構成され、その幅は約5.5mあります。すべて檜板を使用し、「濡れ縁」の板厚は9cmあります。

大御台所



巨大な丸太を使った小屋組み
「大御台所」は2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。 囲炉裏の復元には直下から発掘された石を一部使用しています。
火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しの窓がある吹抜けとなっており、 巨大な丸太を使った小屋組みをご覧いただけます。

茶室



江戸時代へと続く茶の文化
本丸御殿には大広間や台所のほかに茶室があったことも絵図などによって分かっています。この茶室の間取りは長六畳台目で、文献や類似資料などにより、千利休の弟子である古田織部好みの茶室として復元しています。

闇り通路(くらがりつうろ)



全国で他に例をみない御殿の地下通路
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路を有する特異な構造となっています。 御殿への正式な入口であり、 「闇り通路」と呼ばれています。
このような地下通路を持つ御殿建築は全国にもあまり例がありません。


数寄屋丸ゾーン


◆地図石



不思議な石組み「地図石」
「打ち込みハギ」と呼ばれる方法で築かれた熊本城の石組みの中で、ここだけは特異な石の組み方をしてあります。表面を平らに加工し、隙間なく組み合わされた構図から「地図石」と古くから呼ばれてきました。 詳しい情報は、スポットのページをご覧下さい。


◆数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)


数寄屋丸二階御広間

かつて能や茶会が開かれた広間。平成元年に復元。
主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓(うとやぐら)と同規模の数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。
明治になると城内に鎮台(ちんだい:陸軍司令部)が置かれ、次々に建物が撤去されましたが、古写真などの資料により、数寄屋丸一帯は城内でも早い時期に建物が撤去されたことが分かります。
現在の建物は平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元されたものです。


◆石段



名城と言われる所以は、敵のスムーズな進軍を阻止するための意図的な工夫。
お城の石段を歩いてみると、とても歩きにくいことに気付きます。よく観察すると段の高さと奥行きが少しずつ変えてあるのです。これは意図的に配置されたもので、歩幅をわざと変えさせ、スムーズな進軍を阻止するためです。熊本城はこういう所にも工夫がされているからこそ名城と言えるのです。


飯田丸ゾーン


◆飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)


小さなお城の天守閣の役目を果たす優美な姿「飯田丸五階櫓」

飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」です。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられています。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能です。明治になり熊本城に鎮台が置かれると、「不要建物」として取り壊されてしまいましたが、その優美な姿は古写真に残され、多くの市民が復元を望み、平成17年に復元が完成しました。


◆二様の石垣(にようのいしがき)



石垣の傾斜の違いが一目瞭然、隅石(すみいし)の積み方の違いを比較できる場所。
熊本城の石垣は全て「打ち込みハギ」という工法で積まれています。この二様の石垣は同じ打ち込みハギでも隅石(石垣の角)の積み方に違いがあり、傾斜の緩い方は同じような大きさの隅石を使っており、築城初期のものと思われ、傾斜が急な外側の石垣は、長方体の石の長辺と短辺を交互に組み合わせることにより、より急な角度を出すことができる「算木積み(さんぎづみ)」という工法が開発された後のものです。

この違いは大小天守の石垣、竹の丸からの登り口にある元札櫓門跡(もとふだやぐらもん)の石垣に見ることができます。
ちなみに二様の石垣の外側は、細川忠利(ほそかわただとし)の代に本丸御殿(ほんまるごてん)増築の際、積み足したものです。


東竹の丸ゾーン


◆重要文化財櫓群



国指定の重要文化財「櫓群」
熊本城本丸内東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されています。櫓は古くは「矢倉(やのくら)」と書き、武器庫から発展したものです。ここの櫓も普段は倉庫として使われていたと思われますが、外側には「石落し」や「狭間」があり、いざというときには戦える構造となっています。


北十八間櫓

西南戦争の戦禍でも残った櫓群は、国指定の重要文化財に指定。
熊本城本丸内東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されています。
南から田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源乃進櫓(げんのしんやぐら)、少し間を置いて東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)と続きます。 櫓は古くは「矢倉(やのくら)」と書き、武器庫から発展したものです。ここの櫓も普段は倉庫として使われていたと思われますが、外側には「石落し」や「狭間」があり、いざというときには戦える構造となっています。



東十八間櫓


源之進櫓


◆不開門(あかずのもん)



常時は扉を閉ざしていた不開門。現在は伝統工芸館への近道。
この門は城の鬼門である北東に位置します。昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われています。
現在は入城口として使用しており、伝統工芸館への近道です。国の重要文化財に指定されています。


竹の丸ゾーン


◆長塀



格調ある黒と白のコントラストが美しい。平御櫓から馬具櫓まで242mの長塀
東の平御櫓(ひらおんやぐら)から西の馬具櫓(ばぐやぐら)まで約242mの塀が続いています。現存する城郭の塀の中では最長を誇ります。白漆喰(しろしっくい)に黒の下見板を張り、桟瓦(さんがわら)が乗っています。過去に何度も修理が行われていますが、いつの時代かの修理の際に、石落としや狭間(さま)が失われてしまいました。平成3年の台風19号により約140mに渡り倒壊し、その後の修理でも石落としや狭間の詳細な位置や数が不明なため、旧状に復することなく現在に至っています。


西出丸ゾーン


◆西大手門



格式をもつ「西大手門」
熊本城は西・南・北の3つの大手門を持ち、その中で西大手門は最も格式の高い門とされます。
寛永9年(1632年)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利(ほそかわただとし)は、この門の前で衣冠束帯(いかんそくたい)のまま駕籠(かご)を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真中を通らず、端を通るようになったと言われています。


◆西出丸復元櫓群(にしでまるふくげんやぐらぐん)



未申櫓(平成15年8月完成)

復元工事で往時が蘇る西出丸一帯。
復元工事により櫓や櫓門が復元され、往時の姿が再現されました。

◆戌亥櫓(いぬいやぐら)
木造二重三階の隅櫓(すみやぐら)で、建築面積:約113平方メートル。建築費:約4億6千万円で平成15年8月に復元。西出丸の戌亥(北西)の方向に位置する。
◆元太鼓櫓(もとたいこやぐら)
木造一重一階の隅櫓で、建築面積:約65平方メートル。建築費:約2億3千万円で平成15年12月に復元。
◆未申櫓(ひつじさるやぐら)
木造二重三階の隅櫓で、建築面積:約119平方メートル。建築費:約3億円で平成15年8月に復元。西出丸の未申(南西)の方向に位置する。
◆南大手門(みなみおおてもん)
木造の櫓門で、建築面積:約304平方メートル。建築費:約6億1千万円で平成14年10月に復元。西、南、北と3ヶ所ある本丸への大手門(正門)のうち、最大の大手門。


南大手門の内部(平成14年10月完成)


元太鼓櫓(平成15年12月完成)


戌亥櫓(平成15年8月完成)


◆加藤神社




境内から見上げる大小天守と宇土櫓の眺めが絶景。
明治4年(1871年)の神仏分離令により、本妙寺から移されて、城内の宇土櫓(うとやぐら)前に創建された神社です。主祭神は、熊本城築城を始め、熊本の基礎を築いた加藤清正公で、創建時は、錦山(にしきやま)神社と称していました(明治42年より現名称)。明治7年(1874年)に熊本鎮台(くまもとちんだい)が城内に置かれたことから、城外に遷座しますが、昭和37年(1962年)道路改修のため再び城内の現在地に遷宮しました。
清正に殉死した大木兼能(おおきかねよし)、朝鮮人の金宦(きんかん)を合祀しています。境内から見上げる大小天守、宇土櫓の眺めは絶景です。


二の丸・三の丸ゾーン


◆旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)



武家屋敷「 旧細川刑部邸」
細川刑部家(ほそかわぎょうぶけ)(別名長岡刑部家)は細川家3代(肥後藩初代にあたる)忠利(ただとし)公の弟、刑部少輔興孝(ぎょうぶしょうゆうおきたか)が正保3年(1646年)に2万5千石を与えられ興したものです。興孝は延宝6年(1678年)に子飼(こかい)にお茶屋をつくり、後に下屋敷とし、その後も造作を続け一門としての格式を整えました。



銀の間


◆横井小楠(よこいしょうなん)をめぐる維新群像



明治維新の夜明けに影響を与えた横井小楠と縁の人々の群像
横井小楠、通称平四郎、幕末維新期の大思想家です。藩校時習館(じしゅうかん)に学び、江戸遊学(えどゆうがく)を命ぜられて天下の俊秀と交わり、帰国後実学(じつがく)を唱えて中級武士と惣庄屋層の支持を得ました。
越前松平春嶽(まつだいらしゅんがく)公に招聘され、福井藩にその経論を実現し、後に春嶽の幕府総裁職就任に当たっては、その顧問として幕政改革に貢献しました。その間に勝海舟(かつかいしゅう)と親交を得て、また坂本龍馬(さかもとりょうま)にも影響を与えました。
文久3年(1863年)帰国を命ぜられましたが、翌2年正月京の町で志半ばに凶刃に倒れました。

この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年を記念して2000年に、千葉城に近い高橋公園に建立されました。台座には小楠がアメリカ留学に旅立つ甥に贈った「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋の器械の術を尽くさば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」の言葉が刻まれています。


花畑ゾーン


◆清正公銅像



今もなお、市民に親しまれる長烏帽子姿の清清正公(せいしょこ)さん
行幸橋(みゆきばし)際に桔梗紋(ききょうもん)の具足(ぐそく)、蛇の目紋(じゃのめもん)の桶革胴(おけがわどう)、陣羽織(じんばおり)、長烏帽子(ながえぼし)姿で、熊本城を背にした清正公があたりを睥睨しています。
右手に采配(さいはい)を持ち床机(しょうぎ)に腰かけた姿は、戦を指揮しているときのものでしょうか。
この銅像は熊本マグナライオンズクラブが中心となって多くの浄財を集め、昭和54年(1979年)に作成されました。作者は名古屋在住の日展会員高藤鎮夫(たかとうしずお)氏です。
ところでこの清正公、虎の皮の上に座っているのをご存知でしたか?