熊本城ギャラリー
熊本城フォトコンテスト2015「春」

熊本城の歴史

*詳しくは「熊本城公式ホームページ 歴史ドラマ」をごらんください。

◆清正以前の隈本城(きよまさいぜんのくまもとじょう)

茶臼山一帯は、熊本城築城以前から肥後の要でした。
現在の熊本城はかつて茶臼山(ちゃうすやま)と呼ばれた丘陵地に、慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、加藤清正(かとうきよまさ)が築いたお城ですが、それ以前にもこの茶臼山一帯には中世城が存在しました。このことからも茶臼山は肥後の要であると言えるでしょう。

記録に残る最古の城は、応仁年間(1467年~1469年)に茶臼山の東端に築かれた千葉城(ちばじょう)で、城主は菊池一族の出田秀信(いでたひでのぶ)です。
次に明応5年(1496年)に鹿子木親員(かのこぎちかかず)別名鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん)が茶臼山西南麓に「隈本城」を築きました。城の規模や場所は判然としませんが、現在の古城(こじょう)と呼ばれる一帯にあったようです。

その後九州も菊池氏、大友氏、島津氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏などが争う戦乱の時代を迎え、隈本城には天文19年(1550年)大友氏の配下城親冬(じょうちかふゆ)が入ることになりました。
天正15年(1587年)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定により、佐々成政(さっさなりまさ)が領主として肥後に入国しますが、検地の強行などにより国衆一揆を引き起こし、成政は切腹。翌年肥後は北半分を加藤清正に、南半分を小西行長(こにしゆきなが)に分け与えられることになりました。このとき清正が居城としたのも隈本城でした。


◆加藤清正


御幸橋(みゆきばし)にある清正公銅像

清正の善政の功績は、今なお市民に慕われています。
永禄5年(1562年)6月24日尾張国(おわりのくに)生まれで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは血縁関係にあり、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗りました。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。

天正16年(1588年)清正は肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。清正27歳のときでした。前年に佐々成政(さっさなりまさ)が肥後統治に失敗した後を受けたものでした。入国当時の肥後は国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。

入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。今でも熊本では善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるのです。

秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となります。慶長16年(1611年)二条城(にじょうじょう)で秀吉の遺児秀頼(ひでより)と徳川家康(とくがわいえやす)を会見させることに成功しました。
清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。
加藤家の菩提寺本妙寺(ほんみょうじ)では、毎年清正の命日(新暦7月23日~24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行なわれ多くの参拝客で賑わいます。


◆「昭君之間(しょうくんのま)」の秘密



一番格式の高い部屋。実は「将軍の間」の隠語という説も。
熊本城本丸御殿(くまもとじょうほんまるごてん)は畳数1570畳、部屋数53もある建物群でした。その中でもひときわ大きい建物が本丸御殿大広間(ほんまるごてんおおひろま)で、ここは藩主の居間として使われたり、部下と対面する場所でもありました。
なかでも一番格式の高い部屋が「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋です。この部屋には、中国の漢の時代のお話で、胡の国に送られた絶世の美女、王昭君の物語が描かれていました。

「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのです。

また、昭君の間には抜け穴伝説もあります。熊本城築城に携わった大工の棟梁善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されています。
そのほかにも鴬張りの廊下の話なども残っており、格式の高さとともに謎の多い建物でもありました。


◆熊本城の石垣



西南戦争の火災でも焼け残った、優美にして堅牢な石垣。
熊本城は明治になって、建物が次々と取り壊され、西南戦争では貴重な天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)までも燃えてしまいましたが、石垣はほとんどが残りました。
熊本城の最大の特徴はなんと言ってもこの石垣です。優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていました。江戸時代の「甲子夜話(かっしやわ)」にはその偉容が描かれています。
熊本市ではこの石垣を永遠に子孫に伝えるため、毎年計画的に傷んだ石垣の積み替え工事を行い、保存管理に努めています。


◆熊本城の築城時期



いまだに謎のまま、熊本城の築城の時期。
熊本城の築城時期については慶長6年(1601年)着工、慶長12年(1607年)完成という通説を採っていますが、これについては種々疑問があります。
完成は「隈本の文字の事、今度御城出来候に付御改候て熊本と御書成られ候」という文書により慶長12年にほぼ現在の城郭が完成したとみて間違いないと思われますが、着工については諸説あり、また「慶長四年八月吉日」の銘が入った瓦が出土したりもしており、着工年を確定できていません。 ただ、これだけ巨大なお城を見ていると、とても7年間で完成したとは思えず、慶長6年を更に何年か遡って考えるのが素直な気がします。


◆細川忠利

加藤家改易後、肥後の国づくりにあたった文武両道の城主。
加藤家が改易された後に肥後に入国したのが、豊前小倉城主細川忠利でした。母は明智光秀(あけちみつひで)の娘、玉(別名ガラシャ)です。
細川家は信長、秀吉、家康に仕えて戦国乱世をくぐり抜け、丹波、豊前と国替えを重ねて肥後藩主となりました。

忠利が肥後に入国するにあたって一番気を使ったのが、加藤家に礼を尽くすことでした。国入りのときに行列の先頭には清正の位牌を掲げ、入城する際は大手門(おおてもん)で深々とぬかずき、天守に登って清正の眠る本妙寺(ほんみょうじ)に向かい頭を下げたと伝えられています。

この気遣いは細川家代々伝えられ、自分の事跡も「清正公のお陰」としたこともあったようです。熊本で清正人気が根強いのも、このあたりからくるのではないでしょうか。
忠利は親譲りの文人でもあり、また武道にも秀でていました。晩年は宮本武蔵(みやもとむさし)を客分として迎え入れるなど、武人たる所以を遺憾なく発揮しました。


◆宮本武蔵

武蔵が、細川忠利公に招かれ熊本に来た理由は・・。
剣豪宮本武蔵は寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利(ほそかわただとし)公に招かれ、城内千葉城(ちばじょう)で晩年を過ごしました。
武蔵が熊本に来たのは、終焉の地を求める心のほかに、彼が剣の道から得た真理を治国経世の上に役立てようという気持ちもあったようです。武蔵はこの地で自ら創始した二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)を大成して「兵法三十五ヶ条の覚書」「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送りました。

正保2年(1645年)62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑(かっちゅう)姿で葬られたといわれています。この地が選ばれたのは、恩顧をこうむった細川藩主の江戸参勤交代を草葉のかげから拝したい、という武蔵の願いだったといわれています。
武蔵は城内千葉城に屋敷を与えられていたといい、NHK熊本放送局の敷地に現在も武蔵使用の井戸が残されています。


◆藩校時習館(はんこうじしゅうかん)



全国の藩校の中でも屈指と言われた規模、組織、授業内容。
細川家第8代重賢公(しげかたこう)が設立した文武両道の学校です。宝暦5年(1755年)に秋山玉山(あきやまぎょくざん)を初代教授に迎え開校しました。朱子学を学風として、教科書は四書五経。漢学、習字、習礼、数学、音楽、故実などを学び、馬術、居合、長刀、剣術、槍術、砲術等の武芸も東榭・西榭(とうしゃ・せいしゃ)と呼ばれる演習所で修行しました。

藩士の子弟は8歳の正月に入学し、試験に合格すれば13~17歳で「講堂」となり、上位の学科を学べ、更に、前途有望な者と門閥の子弟25人が「居寮生」となり、藩費で寄宿し、勉学を続けることができました。また、特に優秀な者は藩外への留学も認められていました。
明治3年7月藩政改革により廃校となりましたが、規模、組織、内容の充実していることは全国の藩校の中でも屈指の存在として知られていました。


◆肥後の幕末維新


横井小楠と維新郡像

乗り遅れた肥後の維新は、明治3年にようやく成し遂げられた。
幕末の肥後藩は凶作の影響もあり、都市も農村も荒れ、一揆や打ちこわしが頻発しました。そんな中、藩は時習館(じしゅうかん)出身者が中心の保守佐幕派「学校党」、林桜園(はやしおうえん)の影響下にある尊皇攘夷派「勤皇党(きんのうとう)」、学校党政権を批判する「実学党(じつがくとう)」(後に坪井派、沼山津派に更に分裂)に分かれ、激しく論戦を戦わすばかりで、とうとう明治維新には乗り遅れてしまいました。

明治3年(1870年)3月、当時の藩主細川韶邦(ほそかわよしくに)が藩費で購入した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」を国に献上するにあたり、「当藩ニ於テハ、御維新後、何等之功績モ無之、誠ニ以テ恐慄之至リニ奉存侯間」とひたすら恐縮している程です。
同年5月、韶邦の弟護久(もりひさ)が藩知事に就任、藩首脳を更迭して実学党政権を樹立し、やっと「肥後の維新」がなったと言われています。

実学党による藩政改革は旧来の権力を否定し、藩庁機構の整理統合や雑税廃止など成果を上げましたが、「熊本城廃棄意見書」を提出するなど過激な面もありました。実学党の革新的な姿勢が中央の反発を買い、明治6年土佐出身の安岡良亮(やすおかりょうすけ)が県令として派遣され、実学党員は全員職を解かれ、一気に中央集権化が進んでいくこととなります。
勤皇党は敬神党と名を変え、明治9年(1876年)に神風連の乱(しんぷうれんのらん)を引き起こすことになります。学校党は翌10年(1877年)の西南戦争で熊本隊を組織し西郷側で参戦、戦後は国権党(こっけんとう)として政治に活路を見出しました。また、実学党(沼山津派)は西南戦争では中立を守りましたが、後に立憲自由党として政界に進出しました。


◆熊本洋学校


熊本洋学校教師館ジェーンズ邸

有為な人材を輩出、熊本の近代化に影響を与えた洋学校。
明治3年(1870年)に熊本藩の実権を握った実学党(じつがくとう)政権により、西洋の文物技術を移入するために創設された学校です。アメリカ人L.L.ジェーンズ(リロイ・ランシング・ジェーンズ)を教師として招き、文学、算術、地理、化学、測量、作文、演説など多岐にわたる授業を、ジェーンズが全て英語で行いました。

明治4年(1871年)9月1日、城内古城(ふるしろ)、現在の県立第一高等学校に開校、徳富蘇峰(とくとみそほう)等の有為な人材を多く輩出しましたが、神風連の乱(しんぷうれんのらん)直前の明治9年(1876年)8月に廃校となりました。ジェーンズの影響で多くの生徒がキリスト教に入信、後に熊本バンドと呼ばれることになる奉教結盟を花岡山(はなおかやま)で行ないました。この活動が当局を刺激し廃校につながったのです。

また、西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)が、日本赤十字社の前身となる「博愛社(はくあいしゃ)」を設立する許可がおりたのもこの熊本洋学校でした。
コロニア風の建物は水前寺公園の近くに移築され、「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」として一般公開されています。熊本城では、ジェーンズがアメリカに持ち帰った日本資料(アメリカプリンストン大学所蔵)の中から発見された、貴重な熊本城の古写真19枚を、天守閣最上階と数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)に展示しています。


◆神風連の変



法華坂(ほっけざか)にある「大田黒伴雄終焉之地」


二の丸公園にある「将士奮戦之跡」

維新の波に反発し、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱。
神風連(しんぷうれん)は城内千葉城(ちばじょう)にあった攘夷主義の思想団体でした。
明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令(たいとうきんしれい)」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し、新開大神宮(しんかいだいじんぐう)に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台(くまもとちんだい)を攻めた旧士族の反乱です。


◆西南戦争熊本城籠城戦


高橋公園にある「谷干城(たにたてき)」の銅像

熊本城が不落の名城ということを名実ともに実証。
明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、薩軍(さつぐん)が北上を始めます。かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)は前日の14日に籠城を決意します。
前年10月の神風連の乱(しんぷうれんのらん)から未だ鎮台兵の士気が回復していないことや、県下の士族には薩摩と気脈を通ずる者が多く、また兵力が圧倒的に少なかったからです。

籠城が決まると食料・薪炭等を備蓄し、橋を撤去したり、通路を塞ぎ、地雷を埋め、更には「射界の清掃」のために市中に火を放ちました。開戦前に城下は焼土と化したのです。
市中放火とほぼ同時刻、天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまいます。原因にはいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。
3日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を進めたのでした。
3月19日、陸軍中将黒田清隆(くろだきよたか)率いる衝背軍が八代方面に上陸、熊本城を目指し北上を始めます。翌20日には田原坂が陥落。薩軍も必死に抵抗しますが、ついに4月14日衝背軍が薩軍の囲みを解き熊本城に入城、52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を名実ともに実証したのでした。

西郷は終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに今も伝えられています。
熊本城周辺には西南戦争にまつわる史跡が多く残されています。明治の武人を偲んで熊本城域を散策するのもまた一興ですよ。


◆天守閣炎上

謎の多い、西南戦争での天守閣炎上。
西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火し、天守閣と本丸御殿(ほんまるごてん)一帯が全焼しました。
原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台(ちんだい)自ら火を付けたとする「自焼説」がありますが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎(こだまげんたろう)が火を付けた、という説が現在では有力になりつつあります。


◆熊本城本丸御殿跡から出土した拳銃


出士した拳銃


出士品と同じ型のモデルガン

発見された拳銃は、竜馬が所持していた拳銃と同型だった。
平成15年6月、熊本城本丸御殿復元事業に伴う発掘調査で、西南戦争の際に籠城軍高級将校が所持していたと思われる拳銃が出土しました。
この拳銃は銃身を上に折り弾倉を取り外すという特異な構造と、32口径(約8mm)弾丸装填数6発という特徴から、アメリカ南北戦争時に7万丁あまりが製造され、日本にも幕末から明治にかけて多く輸入された Smith & Wesson 社製の No.2 (S&W No.2) であることが判りました。

幕末の京都寺田屋事件慶応2年(1866)の際に坂本竜馬(さかもとりょうま)が所持していた拳銃もこの S&W No.2 だと言われています。作家の司馬遼太郎氏は「竜馬がゆく」の中で「竜馬は短銃をぱちりと割った。その上で弾装をとりはずした。・・(中略)・・ところが、弾も、短銃も、短身の蓮根型の弾装も、ぬらぬらと濡れているのである。血であった。」とこの銃の特徴を表現しています。

拳銃が出土したのは小広間三階櫓(こひろまさんかいやぐら)脇の排水路の中で、多くの瓦片などに混じり焼土の中に埋もれていました。出土時には変った形状のために、拳銃と判別できなかったものの、その後の調査で S&W No.2 と判明したものです。
出土状況からして、明らかに西南戦争開戦直前、明治10年(1877年)2月19日の火災により、天守閣や本丸御殿とともに焼け落ち、埋没したものと思われます。


◆銃くれ井戸の話



夜になると「銃をくれ」と言って泣く声が・・。
熊本城に旧陸軍が駐屯していた頃のお話です。夜間城内で歩哨(ほしょう)に立っていた兵隊が居眠りをしているのを見つけた上官が、懲らしめてやろうと眠っている兵隊の銃を隠してしまいました。
当時は自分の命よりも大事な銃です。兵隊は不始末を恥じて井戸に身を投げました。

それからその井戸からは夜になると「銃をくれ」と言って泣く声が聞こえるようになったそうです。その井戸は西出丸にある井戸とも、棒庵坂(ぼうあんざか)の下の井戸とも言われています。しかし、絶えて久しくそういう話は聞きませんから、平和な世の中になったので、兵隊さんも成仏されたのではないでしょうか。